‘History has shown that the easiest way to unite a people is by inspiring a common fear and hatred of others.’
(歴史が示す通り、人々を団結させる最も簡単な方法は、その人々と共有する他者への恐怖と憎しみを吹き込むことである。)
— Barry Rubin. 2008. The Truth About Syria[1]
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他者への恐怖と憎しみ、、、敵がいるという発想、、、それを人々に吹き込む、、、。それはいつの時代も、人々の上に立とうという者にとって、その人々を束ね、その人々への支配を容易にする魔法の杖である。特にその人々がバラバラであり、そして常にいがみ合っている場合は、、、。
そしてこの魔法の行き着く先には、紛争があり、戦争がある。この魔法は一度使うと、歯止めを掛けるのは難しい。この魔法を使っている魔法使いが、魔法に頼らざるえなくなり、魔法に使われるようになる。
その魔法を「Otherness(=アザネス=異質な物/事、似ていない事の質)」とでも呼ぼうか、、、。人類の歴史上最も人々を殺略した「思想(=イデオロギー)」という悪魔の中でも、最も原始的で、最も単純で、最も狡猾で、最も破壊的なこの悪魔は、生き物の最も基本的な仕組みでもある。細胞レベルで、細胞は自らと同じ質の細胞と同化し内臓のような一つの機能を持った物になる反面、違う質の細胞とは同化しない。排除しようとする。また、その違う質の細胞を攻撃して破壊しようとする場合もある。
そして人間の社会生活の中でも、同じような傾向が見られる。容貌、文化、言語などの類似で同民族/異民族を区別し、時によっては差別する。我々は「Similarity (=類似)」を味方や仲間としがちな一方で、「Otherness」を敵としがちだ。相手が異質であるがゆえ、異質な者を理解出来ない。その不確実さ、不透明さが警戒を呼ぶ。
そこへ密かな意図を持った者が、警戒を敵意へ導くために、一押しする。そして敵意を導かれた者たちは、その敵意を導く事で利益や恩恵を受ける者がいて、その者に操られている事に中々気づかない。そして気づく者がいても、彼らは裏切り者と仲間に思われ、排除され、最悪の場合抹殺される。よって、一度「Otherness」によって敵意を吹き込まれたら最後、この敵意を取り除く事は難しい。例え、その敵意がどれほど的外れであったとしても、、、だ。
密かな意思を持ったものが、本当に欲しいものは支配なのだろうが、そのために敵意を導くのなら、そこには戦争を導く可能性もある。彼らにとって戦争とは、内部の亀裂や軋轢を抱える一つの政治体をまとめる、または敢えて破壊して一からやり直すための、問題解決の手段の一つである。
つまり、「Otherness」を叫び誰かを憎む事を鼓舞する者にとって、敵意の結果として起きる戦いは、彼らが抱える問題を解く方法であり手段なのだから、戦争は招かれ、歓迎されるのである。
聖戦 だから戦いは呼び込まれ、戦争は歓迎される。この「Otherness」の結果の典型の一つが、『聖戦』というアイディアと、その実行と言えるだろう。戦いに神の名を借りるのはよくある事だが、「Otherness」の影響力の大きさを語るのに、一番適当な題材は、十字軍という軍隊を編成しなされたキリスト教世界の聖戦だろう。なぜなら、新約聖書にあるキリスト教本来の教えには、この「戦う」発想はないからである。
聖典であるコーランやその宗教の始祖である預言者モハメドの生き方に織り込まれていた「ジハード」という思想を持っているイスラム教とは違い、イエス・キリストの生涯やその後に書かれたゴスペルと呼ばれるイエスの教えに関わる文書(⬅︎のちの新約聖書の元になる文書)には、神のために他人と戦えとは、出てこない。イエス・キリストが本当はどんな人物だったかはともかく、残っている文書に描かれる人物像からは、戦うイエス・キリストはいない。逆に、戦う預言者モハメドはいる。
キリスト教へ連なるための話をするために、ユダヤ教の聖典である旧約聖書をキリスト教の聖書は同時掲載している。その旧約聖書にはたくさん戦いが出てくるし、「神の名においていて~」という決まり文句で戦うこともあるし、その戦いの勝ち負けで、「神の祝福だ~」「神の怒りだ~」という話は出てくるが、それは人類の「物語」であり、「戦わなくてはならない」という「教え」ではない。そういう上から目線で指示を出す書き方をしているのは、イスラムのコーランの方である。旧約聖書や新約聖書は物語として書かれており、それをどう取るかは読み手にかかっている。そして新約聖書に出てきたイエス・キリストは、どっちか「一方のほっぺたを叩かれたら、もう一方も叩かれるために出せ!」とくるわけで、「殴り返せ!」とは言わない。その物語を読んで、「神は殴り返せと言っているに違いない!」と解釈する人は、あまりいないだろう。
では、そんな無抵抗主義とも言えるイエス・キリストを始祖とするキリスト教が、何故、ある時点で、軍隊を編成し、聖戦と叫んで大遠征をするほど、凶暴化(?)したのであろうか?
それは、そうやって戦いを焚きつける方が、キリスト教世界をまとめるのに、便利だったからだ。
そして、その犯人の名は、法王ウルバヌス二世である。

(「わしじゃ。」)
法王ウルバヌス二世がその地位に就いた時(1088年)、彼が支配するキリスト教世界は分裂していた。
まず、キリスト教世界自体が西と東に分かれていた。そしてウルバヌス法王は、西のキリスト教世界に属していた。現在ローマン・カソリックと呼ばれるキリスト教である。だが、このカソリックの世界も不安定だった。現在のイタリアやフランスの辺りでは地方豪族が武力に物を言わせ領土を競い合い、ゲルマニアと言われた現在のドイツやポーランドなどを含んだ中央から北ヨーロッパ地域の野蛮民族の略奪や襲撃などで、教会の土地や財産も狙われていた。
おまけに教会関係者も、キリスト教教会上層部の許可もなく、末端の教会資産(土地や建物や美術品など)を勝手に売って、自分の懐へ、、、と、組織としても危うかった。
この混乱する世界で、神の代理人たる法王という地位と威厳を保つには、教会内部の規律を上げ、また教会組織に向かう社会の暴力を何とかしなければならなかった。何と言ってもこの時代、社会の中で教会は富が集まる場所の一つだった。お布施、地元住民の無料奉仕の労働力の提供、土地や建物の所有、、、。だから戦争やその戦争で生計を立てる地方豪族たちの、格好の標的でもあった。
しかし、こういう暴力団的豪族も、死後の世界に怯えていた。当時のヨーロッパでは、まだまだ神、神話、天使、妖精、悪魔、、、と言った迷信は、リアルな物として捉えられていた。「死後の世界」や「最後の審判」なる発想は、実は非常に現実的に捉えられていたので、キリスト教会はそういう当時の価値観に沿った稼ぎになるアイディア商品を、暴力団的豪族や金持ち商人などに売って、教会組織を防衛させたり、お布施を稼いだ。そのアイディア商品とは「天国への道」であり、「死後の魂の救済」である。罪を犯しても、神父などに「告白」をすれば救われる、とか、「煉獄」という場所が天国と地獄の間にあり、罪は犯したが地獄へ落ちる程のものでもない人が、死後、しばらくそこで過ごしてから天国へ行くので、商人などの金持ちは罪の元凶である金を教会へ寄付すれば、「煉獄」へ行ける、、、というアイディア商品もあった。
そして、21世紀の我々には馬鹿馬鹿しいのだが、本当にそれを信じて教会へ労働力を提供し、多額のお布施をし、建物や装備品を寄進したりした人が沢山いた。もちろん、権力者が己の正当性を世間に強調したくて、神の権威を借りるため、教会を保護したり援助をした。
とはいえ、こういうアイディア商品を売ってくれるお店、、、いや、教会だからとは言え、誰もその富に絶対手を出さない訳ではない。豪族も王族も、懐が寂しくなったり、どっかと戦争をしたいとなると、その資金稼ぎに教会を襲ったり、搾取したり、或いは普通に泥棒もいた。支配地域を広げたい北の野蛮人達の南下でも、教会は狙われた。神の威光は、暴力団豪族王族や盗賊や野蛮人に対し、万能ではなかった。
で、ウルバヌス二世。一計を思いつく。彼は聖都・エルサレムを盗んだイスラム教を敵だとし、イスラムをエルサレムから駆逐し、エルサレムをキリスト教の手に戻す事を訴えた。そして教会を脅かす武力の持ち主達に、ひっそりとその暴力性をイスラムへ向けるよう、仕向けたのである。襲って盗んで殺すべきは、イスラムである!!!と言うわけである。
そう、この法王ウルバヌス二世の説教が、キリスト教世界での聖戦の最初の呼びかけであり、十字軍の始まりである。時は1095年11月27日。場所はフランスのクレルモンで行われた、クレルモン教会会議[2]でのことだった。
冷静に考えれば、この聖戦の提案は少々無理がある物だったと言えなくもない。法王ウルバヌス二世がその地位に就く400年前に、既にエルサレムはイスラムの手に落ちていた。確かにキリスト教教会の立場からすれば、エルサレムの件は由々しき問題なのだが、同時に、それは突然起きた新しい問題でもなかった。そして法王ウルバヌス二世が居住するイタリアには、イスラムの脅威は届いていなかった。その脅威はキリスト教の一派である正教を奉じる、東の大帝国・ビザンティン帝国のものであった。そして東の正教と西のカソリックは1054年に分裂して、必ずしも仲が良かった訳ではなかったので、東を見捨てる事も出来た。
それに、カソリックの本場であるフランスやイタリアあたりでは、イスラムの脅威はむしろスペインの方が近かった。イスラムの脅威に対抗するなら、エルサレムより、スペイン南部の方が、距離から言ってより重要であるべきだった。実際この頃スペインでは、レコンキスタ(国土回復運動)が進行中だった。
また、異教徒とは言え、それを駆逐=殺す事は、キリスト教の教えでは、罪であるはずだ。昨日まで、「一方のほっぺたを叩かれたら、もう一方も叩かれるために出せ!」と教えておきながら、今日からは「殺せ!」となる理論の飛躍。ローマ帝国の迫害で十字架に架けられたイエス・キリストは、逮捕の時だって抵抗しなかった事になっているのに、突然「殺せ!」とは、、、。このハチャメチャな展開を、どうしよう、、、。
いや、イスラム教徒は異教徒だから、殺してもいい。それは神が喜ぶ事。あいつらは悪魔だから、極悪だから、神の敵だから、全然大丈夫、むしろ素晴らしい事だ、、的な事を、法王ウルバヌス二世は、キリスト教的決まり文句や逸話などを迫真のスピーチで並び立て、あらゆる修辞法を駆使して(?)力説した。そして彼の言う聖戦に参加すれば、(無条件に?)現世での罪は赦され、魂は救われ、天国への道は保証されると、、、神に相談もせずに勝手に、、、約束した。
まあ、ウルバヌス二世に言わせれば、自分か神の代理人だから、神が自分に言わせているのだ、、、とでも思っていたのかもしれない。
そして、それほどの約束をするのに、スペインでは役不足だ。そんな魅力がない。ブランド価値がない。この迷信深く狂信的時代を生きた人々に対し、どれほどの犠牲を払ってでも手に入れたいと説得できるブランド商品、、、それは聖都エルサレム以上のものはなかった。
(めげるな、スペイン。君の番は後で来るから、、、。)
そして、教会内での権力争いを有利に進めるために、指導力があるところを見せたかった。そのために考えられたプロジェクトとも言えた。
実際、ウルバヌス二世はクレルモン教会会議の前後、イスラム教のネガティブ・キャンペーンを張って、イスラムを悪魔化していた。プロパガンダ作戦である。それが本当であれ嘘であれ、事の真偽はどうでもいい。とにかくキリスト教会へ向かう暴力のエネルギーを、イスラムへ向けさせる事が大事だった。
例えいつも効果があるとは言い切れないとは言え、言葉は人を動かす力がある。この時、この法王ウルバヌス二世の説教に呼応する人々はかなりいた。ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Gedefroy de Bouillon)、レーモン4世(Raymond IV de Toulouse)、ボエモン1世(Bohemond of Taranto, or Bohemond I)などの貴族が有名だ。彼らが宗教的ロマンや信仰心にかられたか、正義のために戦うヒーロになりたいという野心のためか、あるいは軍事遠征につきものの略奪の機会を狙っていたか、、、そこは議論があるだろう。
ただ、当時のフランスやイタリアなどのカソリック地域では、宗教的思考が人々の考え方や物の言い方などに浸透していたので、21世紀に住む我々がどれほど馬鹿馬鹿しいと思っても、純粋に魂の救済や天国を信じて十字軍に参加した人々も多かったと思う。いや、最後に聖戦に勝ては、途中で略奪しようが、その罪は、、、赦される?
画して、第一次十字軍は編成された。農民から貴族や豪族まで、その数およそ6万人と推定されている。そして彼らは東へ旅立った。以後、200年にわたり、勝利、歓喜、敗北、落胆、伝説の物語が生まれ、キリスト教教会は聖戦の(屁)理屈に磨きを掛けて行った傍ら、十字軍に関わるビジネスで潤い、同時に近代国際経済の土台を築くこととなる。
ビジネス、、、と言うのも十字軍は、「天国」という宗教的アイディア商品販売という元々のビジネスに加え、キリスト教教会というNGOが寄付や寄進や労働力提供を受け、軍事遠征プロジェクトを行っているのだから、そのプロジェクト自体が経済活動となったからである。神のための事業と言うことで集まる寄付や寄進で、教会は豊かになった。その富を盗むはずの豪族も貴族も王族も野蛮人も十字軍へ行ってしまい、教会を取り巻く治安は向上。そして十字軍遠征に必要な物資の需要が起き、経済は回る。多額の金銭を持ち歩くのは危険な時代、フランスで預けた金の小切手を持って、シリアのアンティオキで現金に替えるといった小切手のシステムを開発もしたりした。西と東の往来が盛んになり、貿易も進む。しかもイスラム世界も商売相手だったりもする。そして中東地域の地中海側では、十字軍遠征のために出来た都市が栄えた。聖戦というプロジェクトが通常の事として動き足すと、それに付随した経済活動が活発になり、そのビジネスに関わる人々は豊かになった。
敵がいるとは、戦争とは、なんと優れた問題解決策なのだ!「Otherness」- 異質なる者を敵とし、その敵と戦う夢とロマンに満ち溢れたプロジェクトを作り、多くの人を巻き込めば、自分の権威は高まり、金は集まり、ビジネスはうまく行く、、、。血を流すのは教会というより、教会の提供するアイディア商品が価値あるモノと信じている十字軍遠征の参加者達、、、。彼らが命を落とした時は、「天国への道」を通れるように、祈ってやろう、、、(⬅︎金はかからないから)。
こうして、本来、敵すら愛し許す事を奨励するはずのキリスト教は、その神の代理人を名乗る(or 騙る?)教会により、その神学理論をねじ曲げられ、聖戦なら敵と戦う事を良しとするようになった。それは「国」という枠組みが成熟し、教会から距離を置くようになり、資金のかかる聖戦に各王国の支配者や豪族が興味を失うまで、続いた。そんなこの世の果てのロマンより、現実に地元で起きる領土戦争の方が大事になっていったからだっだ。だが、それには200年かかった。
やがて時代はキリスト教教会にとって都合の悪い方向へ向かい、科学的思考や理論的思考や世俗主義が幅をきかせるようになり、教会にとって都合のいい理屈が疑問視され敬遠されるようになり、ヨーロッパではキリスト教の影響力は衰退していくのである。その衰退の中で、もともとは無かった聖戦というアイディア商品は歴史の遺物になり、本来のキリスト教の精神に立ち戻っていこう、、、という事になる。
まあ、その歴史の遺物を、現代ではイスラムの方が、十字軍の復讐だとか言って自分たちの聖戦=ジハードの理由にしているのは、皮肉なものである。イスラムの方は、預言者モハメドの言葉やその人生から発したジハードの思想がある宗教だからだ。
だからこそ余計に、キリスト教に元々の聖戦思想がなく、それは後から作られたもので、しかもその作られたものはキリスト教本来の原則から外れているにも関わらず、過酷とも言える遠征や軍事行動を可能にした事は、関心に値すると思う。洗脳やプロパガンダの顕著な成功例と考えてもいいだろう。火のないところに煙は立つのである。誰かが火を起こしに来るのである。そこに何か利益を生む事があるのである。だから抗争を起こしたい。紛争を起こしたい。戦争を起こしたい。勝てば己を正義と呼べる。負けても今のどん詰まりの状況から逃れて、新しい事ができるかもしれない。
戦いの持続が狙いである場合もある。続いてもらわなくてはならないのであって、終わってしまえば利益を生まなくなるので、それは困る、、、という時である。
そこにもある「Otherness」の敵化 それは例えば現代のパレスチナ抗争でも言える。、各派のゲリラ集団は、パレスチナ人の「俺たちって、かわいそう。だから寄付を頂戴!」ビジネスで資金を獲得している。パレスチナ抗争も、敵のイスラエルも、永遠に(?)なくては困る。
シリア難民もシリア内戦がなくなったら、ヨーロッパで不法滞在者になってしまうから、困る。アサド君が敵として生き延びてくれないと、困る。ISISが派手にやってくれないと、困る。
いや、これらはそれなりに現実がある。だが、無かった話があったことになって話がおかしくなったなら、「所謂!従軍慰安婦」問題も、韓国に取って終わってもらっては困る。折角無かった問題をある事にして、韓国国民を喜ばしたんだから、もう、なくなってもらっては困る。日韓基本条約で1945年までに起こった問題はすべて解決済みになっても、日本に賠償金をたかる口実がなくなるから、解決済みは未解決にならないと困る。
そして習君の中国。いろいろドン詰まってきた今日この頃なので、外に敵が無意味に欲しいのではないだろうか?それが日本であれ、アメリカであれ、、、。きっと習君なら、勝利が欲しいだろう。だが、彼の中国内での政敵は、むしろ中国が負けた後の戦後処理の担当者として振る舞い、中国での権力を握るという構想も描ける。戦争をづっと続ける、、、という選択は、すぐに利益を求める中国人には魅力がないと思うが、さて、、、。
誰も争いは望まないって?そんなリベラルが好きそうなフレーズは、フレーズであって、常に事実とは限らない。争いで得をする輩もいるのだ。そして大規模な争いを起こしたいときは、多くの人を扇動しなければならないから、その手段として「敵」を捏造する。 「敵」への恐怖と憎しみで、人々を動かす。
だが、その「敵」は本当に「敵」とするほどのモノなのだろうか?我々はその「敵」の事実をどれほど知っているのだろうか?いや、それ以上に、その「敵」は本当にいるのだろうか?単に我々と違うというだけでは、敵にはならない。嫌なら付き合わなければいい。そして本当に我々に損害を与えているのなら、、、その損害を一つ一つ列挙し、確認できるのなら、、、今度は腹を据えて敵に向かわなければ、我々の存在が脅かされる。
敵か、味方か、異質なモノか、、、その見極めが肝心なのだろう。
そして「Otherness」を軽々しく「敵」と訴える者を見たら、、、その者は敵か、味方か、異質なものか、、、?
おまけ ところでこの秋、安全保障関連法を戦争法と呼び、法案が成立したら徴兵制になると言って、安全保障関連法を「敵」とした人々がいました。法案が成立した今、誰も徴兵制の準備がどこまで進んでいるのかの話を聞きません。赤紙の準備を政府のどこの部署が行っているのか、あのブサヨの人々が何故リポートし、安倍政権を非難しないのでしょうか?
安全保障関連法は「敵」だったのでしょうか?そしてブサヨは敵を見失ったのでしょうか?それとも、ハナからそんな敵はいなかったのでしょうか?
ええ、いなかったんですよ。安全保障関連法に徴兵制なんて、なかったんですよ。捏造だったんですよ。その無いモノに反対せよ!と叫んでいたんですよ。
ふー(ため息)。
The End.
[1] Barry Rubin. 2008. The Truth About Syria, New York and Houndmills, Basingstoke, Hampshire, England. Palsgrave MacMillan, p.30.
[2] See: https://ja.wikipedia.org/wiki/クレルモン教会会議
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